今回は、出光興産を興した出光佐三さんについて調べてみました。
出光佐三(1885 ~ 1981)は石油の精製(混じり物を取り除く)・販売を行っている出光興産の創業者です。
出光さん
「従業員を辞めさせてはいけないんだ。私は一銭たりとも給料はいらない。そして、君たちも三度の飯を二度に、それでも駄目なら一度に、一度の飯をお粥にしてでも頑張ろうではないか」 ← 若手経営者に語った言葉だとされています。
この出光さん
1911年に会社を興し一定の成果を収めますが、日本が戦争で負けてしまうと、ほぼ全ての事業を失ってしまうのです。
事業を海外に展開していた出光さん。
800人もの従業員が海外から引きあげられ、日本に戻って来るではありませんか( ̄ロ ̄)
本来なら、事業そのものが存在しないので、従業員を解雇するのが常套手段。役員会でも解雇はやむなしの声があがる中、出光さんは役員に対して怒鳴りつけるのです。
出光佐三さん
「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。事業は飛び、借金は残ったが、会社を支えるのは人なんだ。これが唯一の資本であり、今後の事業を作るのだ。人を大切にせずして何をしようというのか」
なんと、出光さんは800人もの従業員をリストラせず、言葉ではなく、本気で家族扱いしたのです。その仕事内容といえば、ラジオの修理に始まって、農業、漁業、醤油作りなど、石油とは縁のないお仕事がほとんどでした。
しかし、リストラされなかった従業員達は、その恩から一致団結の精神で、必死になって会社の為に頑張るのです。 やがて、従業員を資本として経営を行った結果、石油業に復帰する事ができました(ノ^-^)ノ
これほどまでに、従業員を大切にしたのは何故だろう?
実は、ある人物と約束を交わしていたのです。
実家の商売が傾いてしまい、家庭教師のアルバイトをしなければ生活が出来ない状態になってしまった出光さん。 その教え子の父親こそが、日田重太郎という人物です。長男を教育する出光さんの人格を評価しておりました。
一方、出光さんも商売をしたくて仕方がありませんでしたが、実家の商売が傾いてしまい、お金どころではありません。
そんなある時、日田さんはいいました。
「土地が売れて現金が舞い込んできたんだ。 これを君にあげるので、君のやりたい事業を行いなさい」
貸すのではなく、現在のお金で6000万円もの大金をあげるといってきたのです。つまり、利息なども支払わなくて良いという事です。
しかし、この日田さん。ある条件を突きつけてくるのです。
江戸から明治に移り変わり、特権階級だった武士の身分は保証されなくなってしまった。気がつけば、こういう時代背景から成金思考の人間が増えてしまったようだ。
君には従業員を家族同様に扱ってもらい、人を大切にする会社を作ってもらいたい。そして、自分自身が掲げる主義主張を最後まで通して欲しいんだ。この約束を守れるかい? 私がお金を出したという事をいってはいけないよ。
日田さんは、日本の将来に不安を抱き、日本人の本来のあり方である ”和の精神” を出光さんに託したのです。このお金で立ち上げた会社こそが、出光興産の前身にあたる出光商会という会社です。(1911年)
果たして、結果はどうだったのでしょうか?
出光さんの経営に対する考えが甘く、わずか3年で資金を使い果たし、倒産寸前に追い込まれてしまったのです。
「日田さんの期待に応える事ができなかった。 申し訳ない気持ちでいっぱいだ」 重い腰をあげ、日田さんに事業経緯を説明すると、日田さんから驚きの言葉を投げかけられるのです。
「3年でだめなら5年、5年でだめなら10年と、何故、頑張ろうとしないんだ(怒) 神戸に所有している家がある。この家を売却してあげるから、そのお金を使って事業を継続させなさい。」
日田さんの親戚は、出光さんにお金を出すな!と必死になって説得したそうです。しかし、日田さんはいうのです。
「出光となら無一文となっても構わない」
日田さんは、自分の利益ではなく、日本社会全体の利益の為に、無償の精神で出光さんに投資をしたのです。
本気で信頼している事に気がついた出光さん。
「これ以上、日田さんにお金を出させてはいけない」
こうして、泥臭い戦略を立て、夜中の海で待ち構えては、主流の灯油ではなく激安の軽油を船主に販売することで、相手のコスト削減に貢献し、自身の会社を軌道に乗せることに成功させるのです。
出光さんの人に対する思いやり。
その本質を調べてみると、日田さんから注がれた志が原動力になっていたのでしょうね。
著者 出川 雄一(ツイッター) 障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。
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