前回のレポートでは、知的障がい者教育の父、石井亮一さんについて簡単に調べてみました。
今回は亮一さんの妻である、石井筆子さん(1861 – 1944)とはどんな人物だったのだろうか? についてレポートを書かせていただきます。
実は、筆子さんの叔父に当たる人物こそが、薩長同名に貢献した渡辺昇さんなのです。つまり、筆子さんは身分の高い華族出身の女性なのです。
石井筆子さん
明治天皇の皇后の命により、
津田梅子さんらと共に海外に留学する事となった筆子さん。
海外では様々な刺激を受けたようで、
「日本人女性の地位を向上させるにはどうすればいいか?」
と、考えるようになるのです。
筆子さん
「男性と同じように、女性もしっかりとした教育を継続して受ける事が大切なんだ」
帰国した筆子さんは女性教育の発展のために、津田梅子さんらと共に学校の先生になりました。 そして、運命的な出会いが訪れます。
その時の教え子だった人物こそが九条節子さん(後の大正天皇の皇后)でした。
筆子さんと節子さん!
その信頼関係は厚く、生涯にわたりお付き合いがあったようです。
筆子さん
「男女の此世(このよ)にあるは云うまでもなく、同等の権利を具備するものにして、男子の為に女子あるにあらさるは猶女子の為に男子あらざるがことし・・・・」 具備 = 必要な物や事柄を十分に備えていること
つまり、女性の自立を掲げ、地位の向上に努めていた人物なのです。
しかし、私生活に至っては苦労の連続でした。
次女は病弱で亡くなり、長女と三女は知的に障害を抱えていたのです。また、最初の旦那さんは結核で死別。未亡人となってしまうのです。
この時、長女を預けた施設こそが滝野川学園でした。
亮一さんの福祉に対する気持ちに心を動かされ、やがて結ばれる事となりました。 (筆子さん42歳の決断でした)
自分の理念であった教育精神!
その精神を知的障がい者の教育の為に注ぐ事になるのです。
当時は富国強兵が叫ばれていた時代で、お国の役に立てない園児達は批判の矛先となってしまいました。しかし、筆子さんは園児をかばい、華族の身分でありながら、弱い立場の園児達を守り抜こうとしたのです。
1937年、莫大な借金を残し、亮一さんは70歳でこの世を去ります。その後、施設を継続させるかを悩みますが、自分自身の志を曲げてはいけない!と、二代目学園長に就任。
この模範となる滝野川学園の継続があったからこそ、後に知的障がい者福祉施設が増えるきっかけとなるのです。
著者 出川 雄一(ツイッター) 障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。
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