口を使って針に糸を通し、縫い物をしている中村久子さんです。
障がい者と経済的自立について研究しておりますm(_ _)m
前回、中村久子さん!両手両足を切断せざる負えなくなったのは何故ですか? というテーマでレポートを書かせて頂きました。
今回は、ご両親はどのようにして中村久子さん(1897 - 1968)を育て上げたのか?について調べてみました。
三歳の時に手足を切断してしまった久子さん。いつしか、そのうわさを嗅ぎ付けた興行業者は、「見世物にしたいからその娘を売ってくれ」 このような心ない話を持ちかけるようになるのです。
久子さんのお父さんは激怒します。
「久子!父(トト)様が乞食になっても死んで離さないよ」
娘に対して愛情を注いだお父さん。しかし、久子さんが7歳の時に亡くなってしまいました。お金がないため、お母さんはしぶしぶ畳職人の男性と再婚するのですが、久子さんが障害を抱えているために肩身の狭い思いをしていたそうです。
日露戦争に勝利した日本。
近代化による資本主義の波が押し寄せる中、女性達も社会に進出する時代になっていました。しかし、久子さんは手足がないので働く事ができません。
愛情を注いできたお母さんでしたが、
久子さんが11歳ごろになると態度を一変させるのです。
「ここに着物を置いておくから、それをほどいてください」 手足のない久子に対して過激な要求で促すと、ハサミを置いて立ち去ります。
「固い留め糸を、口でちぎる事など絶対にできない・・・・ お母さん、どうして私に無理難題を押し付けるの? わたしは絶対にできません。どうか堪忍してください。」
しかし、お母さんにいくら謝っても絶対に許してもらえません。 いつしか、久子さんは母親を恨むようになり、こうして一週間ほど悩んでいると・・・・
「口でハサミを加えれば、固い留め糸をほどくことができるかも・・・」
考えに考え抜いた結論です。久子さんは、自分の力でほどくことができたのです。「絶対にできっこない」 そう思っていた久子さんは感動のあまり涙を流していたそうです。
お母さんは、久子さんに対して甘やかしたりはしませんでした。
「できないからといってやめてしまったら、人間は何もできません。できないことはないはず。やらねばならんという一心になったら、きっとやれるはずです。」
また、お婆ちゃんも久子さんに対して特別扱いはしませんでした。
「しつけ」・「習字」・「読書」・「百人一首」・「礼儀」などを、障害のない人と同じように教えてあげたのです。(そういえば、サリバン先生もヘレンケラーに対して特別扱いせず、一人の人間として接していましたよね)
厳しい教えはさらに続きますが、このしつけのお蔭で、「食事」・「お風呂」・「トイレ」などの身の回りの事から、「裁縫」・「編み物」・「炊事」・「洗濯」まで、なんでもできるようになっていくのです。
お母さんの口癖です。
「人は働くために生まれてきたんや」
しかし、久子さんに働く場所などありません。久子さんの治療費により借金が膨れてしまった関係で、100万円(今の価値)ほどの金額で、見世物小屋に売られてしまう事になるのです。(19歳)
厳しかったしつけ。 そして、自分を売った母親。 恨んでも恨みきれない感情が湧き上がってきたそうです。 しかし、久子さんが22歳の時、母親が若くして亡くなった報告を聞かされると・・・
久子さん
「もしかしたら、一番愛してくれたのは母だったのかもしれない。手足のない自分と借金を抱えて育ててくれた。母自身が死んだあと、自立して生き抜く術を教えなければいけないと思ったに違いない。そんな母をどれだけ恨んだことか・・・」
つまり、お母さんは厳しいながらも子供に対して、自立をしていく術を教えていたのです。久子さんは、手足が無くても身の回りのことは全てできたそうで、子育てもしっかりこなしていました。
この自立心を裏付けるエピソードがありました。
「障害者だからといって恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない」として、国から与えられる障がい者に対する保障制度を、生涯にわたって受けなかったそうです。
つまり、自立して生きていけるので、福祉に頼らず生きてきたのです。
愛とはいったい何なのか?
子供に対する厳しいしつけは知恵を育むものであり、結果として口で何でもこなせるようになりました。(すぐに伝わらない愛もある!)
次のレポートでは、久子さんがどんなお仕事をしていたのか?についてレポートを書かせて頂きます。
著者 出川 雄一(ツイッター) 障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。
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