画 キャリーハムハム
ヘレン・ケラー、8歳当時の写真 隣はサリバン先生
前回、初めて海外に輸出された秋田犬!飼い主はヘレンケラーだった というテーマでレポートを書かせて頂きました。
ヘレン・ケラー(1880 - 1968)さんは、日本に対して親しみを抱いていたようです。というのも、盲人でありながら学者の道で大成した江戸時代の国学者、塙保己一(はなわ ほきいち)さんの文献を読んでいたためです。
「日本の盲人は幸せな生き方ができていたんだなぁ。日本は物理的な欲求にとらわれず、精神的なものを大切にしている」(おそらく、江戸時代に存在していたお互い様の精神だと思います) ← ヘレンはこのような気持ちを抱いたそうです。
来日した時、塙保己一の木像を触ると、
「塙先生の存在のお蔭で、障害を克服することができました。」 とおっしゃっていたそうです。
さてさて、そんなヘレン・ケラーさんを語る前に、ヘレンを教育した家庭教師を紹介しなければなりません。
ヘレン・ケラーの家庭教師をしたのはアン・サリバン(1866 - 1936)さんです。 「奇跡の人」というタイトルの戯曲(演劇で上演させるために執筆された脚本)は、「ヘレン・ケラー」と「サリバン先生」を題材にしたものですが、この奇跡の人とは、ヘレンではなく、サリバン先生の事を表しているのです。
そんなサリバン先生。
実は最悪の環境で生まれ育った人物だったのです。
幼少期にトラコーマ(クラミジアが目に住みつき、炎症を起こす病気)を患ってしまい、これが原因でほとんど目が見えなくなってしまったのです。
父親は無学で大酒のみ。
さらに、母親は9歳の時に亡くなると、弟と一緒に施設に預けられてしまいます。
サリバンさんの不幸は続きます。同じ施設に預けられていた弟も、結核のため亡くなってしまうのでした。 この事がきっかけとなり、サリバンさんの精神状態はやばい状態になってしまい・・・
うつ病になってしまうのです。
とてもじゃないけど、愛など授けられる状態ではありません。
しかし、預けられた施設で、たまたま見学に来ていたお偉いさんに出会うと、「私はどうしても勉強がしたいんだ」 このような強い願いを訴え、アメリカ初の盲学校である、パーキンス盲学校で勉強させてもらう事ができたのです。(14歳)
やがて、ほとんど目が見えなかったサリバンさんでしたが、目の手術を数回行う事により、少しだけ見えるようになりました。
勉強熱心だったサリバンさん。
パーキンス盲学校に、ひっそりと存在する一人の女性に出会います。ローラ・ブリッジマンさんです。彼女は、「目が見えず」、「耳が聞こえない」特徴を持っていましたが、その障害を克服し、指文字で会話ができるようになっていた人物です。
この出会いが大きかった;+.(ノo・・)ノ*;’
サリバンさんは彼女と交流することで、指文字やコミュニケーションの技術を身につけるのです。また、ローラ・ブリッジマンを指導したハウ博士(盲聾教育の先駆者)の記録なども読みあさり、熱心に勉強をしたそうです。
二十歳になったサリバンさん。
家庭教師の要請を受け、目と耳が聞こえないヘレン・ケラーの教育係を担当する事になったのです。
☆目の不自由な環境で育ったサリバンさん。 しかし、その境遇を使命ととらえ、ヘレン・ケラーさんに対して献身的なサポートを行います。
そして、コミュニケーションを身につけたヘレン・ケラーさんもまた、自身の障害を受け入れて、他に存在する障がい者達のために、献身的な活動を行うのです。
彼女もまた、自身の劣悪な境遇を使命ととらえ、身体障害者福祉の発展に全力を注いでいきました。
使命感は人へと伝わっていき、さらにその気持ちを受け継いだ人たちが、自分の劣悪な環境(障害)を原動力に変えてゆく。
何十年、何百年、世の中が良くなるという事は、その現状を打破しようとする当事者達の闘いのように思えます。将来に生まれてくるであろう障がい者の方々が、幸せな環境で暮らせるために。
著者 出川 雄一(ツイッター) 障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。)
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