前回、知的障がい者福祉の創始者!石井亮一とは誰ですか? というレポートを書かせていただきました。 具体的に、どのようなエピソードがあったのでしょうか?
エピソード1
1897年、日本初の知的障がい児学校を立ち上げた石井亮一さん。開設当初、まったく心を開かない少女がいました。
ある時、亮一さんはいいました。
「先生の教え方が下手なんだね。 じゃあ先生はご飯を抜きにするよ」 すると、その少女は涙を流し、亮一さんに対し心を開くようになったそうです。
亮一さんは人格を尊重する教育を心がけたのです。
エピソード2
滝野川学園の運営が厳しく、寄付などを募って運営していました。ある時、寄付の話が持ち上がり、その人物と会うことになりました。 しかし、亮一さんは納得がいかず、このお話は破談となってしまいました。
亮一さん
「けがれたお金だったから断ってきたよ!」
すると、妻の筆子さんはニコニコしながらいいました。
「よくお断りになられましたね」
エピソード3
学園が火事になり、園児をたすけようとする筆子さん。はしごから落ちて足を負傷してしまいます。(生涯、杖をついて生活しなければならならない状態になってしまいました)
その時、筆子さんは叫んだそうです。
「まだ子供が二階に残っている。早く出してあげて、大蔵も落ちていい、建物も構わない。一人でも子どもが残っているうちは、品物に手をつけてはならぬ」
そして、亡くなってしまった6人の園児に対して、一人ひとりに対して鎮魂の言葉を残しました。
エピソード4
慈善心のある人から、石井夫婦の家を寄付で建てたいという申し出がありました。 しかし、亮一さんはこれの話を受け入れず、
「私たちの生活などどうにでもなる」とし、寮の片隅を居間にして過ごしていたそうです。
著者 出川 雄一(ツイッター) 障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。
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