今回は四字熟語について調べてみました。
大きな夢を抱いている方、または大きな志を抱いている方に知っていただければ幸いですo(_ _)o
「積小為大」(せきしょういだい)という熟語です。
「小さなものを積み重ねないと、大きな事を為すことができませんよ。 だから、大きな志があったとしても、いきなり大きな事を試そうとしちゃだめなんだ! 毎日の積み重ねが大切だよ」 ← このような意味が込められています。
この言葉!
二宮金次郎さんの教えとして、現在でも語り継がれている熟語です。
二宮さんって
どんな生き方をしたのだろう??
この人は本当に凄かった!
農民の子供だったのですが、実力が認められて武士となり、やがて幕臣(将軍直属の家臣)として働く事になったからです。(身分制度が厳しい中、異例の大出世を遂げました)
積小為大の考え方が実を結ぶ結果になったのです。
二宮金次郎 (1787 - 1856) 日本の農政家
農政とは農業政策のことです。
二宮金次郎さんは江戸時代末期に活躍した農政家で、荒廃した様々な土地を復興させた人物として知られています。
二宮家は祖父の代まで豪農だったのですが、父の代でほとんどの財産を失ってしまいました。金次郎が14歳の時に父が亡くなると、さらに貧乏になってしまい、自らが山で薪を集め、町へ行ってはその薪を販売して生計を立てていたのです。
しかし、金次郎は一風変わった行動をとるのです。
なんと、薪を背負いながら読書をしているではありませんか。
この姿を見て住人たちは思います。
「アホじゃないか!農民の子供は農民にしかなれないのに、この子は一生懸命勉強をしてるよ┓(´々`)┏ 何を考えているのやら・・・」 主に孔子の本などを読んでいたそうです。
やがて、16歳になると母親も亡くし、金次郎は親戚の家に預けられる事になりました。 しかし、ここでも勉強をやめなかったそうです。 親戚は金次郎にこう言います。
「灯りに使う油がもったいないから勉強をするな!」
金次郎は考えます。
友達からアブラナの種を借り、それを植えて育てたのです。 育ったアブラナは油と交換してもらい・・・! この油を使って勉強をしていたそうです。 また、捨てられた苗を見つけてはそれを拾い、みんなが使っていない田んぼに植え続けたそうです。
この作業を繰り返していくうちに、
一俵のお米を収穫する事ができました。
さらに、積み重ねていくうちに
若干20歳で二宮家を再興させることに成功させるのです。
「小さな事をコツコツと積み重ねると、少しずつ大きくなっていくんだなぁ」 金次郎はこの時に積小為大の大切さを実感する事になりました。 この考えを大人になっても実践し、幕臣までのぼりつめることになるのです。
〇おまけ
金次郎が二宮家を復活させた!
この噂が村中を駆け巡ると、金次郎を雇いたい!という人物が現れます。小田原藩の家老である服部家です。服部家は財政が破綻寸前の状態にあり、この危機的状態を金次郎に託そうと考えたのです。
金次郎は倹約の精神を教え、
さらに貸金業を行う事で服部家の復興を達成させました。
すると、今度は小田原藩のお殿様、大久保忠真が農民である金次郎を登用しようと考えたのです。忠真は器が大きく、身分ではなく実力を評価する人物でした。
大久保忠真
「金次郎ならきっと小田原藩を復興させる事ができるだろう」
しかし、この提案を家老達が拒否するのです!
「身分が違いすぎる・・・・」
そこで、まずは実績を作るため、分家にあたる下野国桜町(現在の栃木県)の農政を金次郎に託したのです。ここは3000石取れる場所にもかかわらず、800石しかとれない状態で、小田原藩から幾度となく役人を派遣するものの、うまくいかない場所だったのです。
この地を金次郎に任せたのです。
下野国桜町に入った金次郎さん。その光景を見て愕然とします。昼間なのに働こうとせず、お酒を飲んだり、ギャンブルに明け暮れていたのです。
金次郎は現場主義の人間です。
一軒ずつ農家の家を訪問し、「どうしてこのような状態に陥ってしまったのが・・・」 その原因を突き詰めようとしたのです。すると、あまりにも年貢が高すぎて、働く気力を失っていた事を突き詰めるのです。
やる気を出させるにはどうすればいいのだろうか?
そこで、年貢を4分の1にまで減らし、農民達のやる気をアップさせる事を考えるのです。それだけでは駄目だと考え、働く農民に対しては表彰し、さらに農具や金などをプレゼントしたのです。
金次郎が桜町にやってきてから、少しずつ農民のやる気が湧き上がってきました。 そんな中、ナスを食べた金次郎さん。夏にもかかわらず、秋ナスの味がする事に驚きます。
もしかしたら、冷夏になるかもしれない。
そこで、寒さに強い 「ヒエ」 や 「アワ」 などを栽培するよう農民達に伝えたのです。これが幸いし、天保の大飢饉では一人の餓死者も出さずにすみました。(農民達の信頼度もアップしました(o^。^o) )
天保の大飢饉とは、1833年から1839年まで続いた飢饉(飢え苦しむこと)です。日本では数十万人の餓死者が出たとされています。
しかし、故郷である小田原藩が大変なことになっていました。
飢えで苦しんでいる人たちが多く、予断を許さない状態だったのです。この危機的状態を託されたのが金次郎さんだったのです。
小田原藩のお殿様、大久保忠真は病気により政治が担えない状態の中、家老に対して藩の米蔵を開放するよう求めます。 しかし、責任を背負いたくない家老達は金次郎さんの要求を拒否してしまうのです。
二ヵ月後、ようやく許可を得た金次郎。 民に対して、
〇「無難」(お金があり、食べるものに困っていない人)
〇「中難」(お金がそこそこあり、食べるものにそれほど困っていない人)
〇「極難」(お金がなく、食べるものに困っている人)
に分け、極難の人たちに対して、一日一合の米を提供したのです。
金次郎さん
「体は痩せるだろうが、これで餓死はしないだろう。寝たければ寝てもいい。空腹に耐えることを仕事だと思って頑張って欲しい。」
生きる希望だけは見失って欲しくない!
そんな願いを込めて、一人ひとりに声をかけていたそうです。
それでも、米蔵にあるお米だけでは限界があります。
「このままでは餓死させてしまう・・・」
そこで、金次郎は知恵を用いて、
この問題を斬新なアイデアで解決しようと考えるのです。
無難や中難の人たちに対し、
「無利子で極難の人たちに融資をして欲しい!」と頼んだのです。
お金持ちの人たちは金次郎の案に否定的でした。
「お金を貸しても返ってこなかったら、オイラこまっちゃうよ(o´3`o) 」
そこで、金次郎が無難や中難の人たちに対して投げかけた言葉がこちらの名言です。 → 名言集4 二宮金次郎(尊徳)さんの名言 (この機転により、小田原藩では一人の餓死者も出さずに済んだと伝えられています。)
この活躍が世の中に伝わると、
ある大きな組織が金次郎を登用しようと考えるのです。
その組織とは・・・
幕府でした。
水野忠邦が天保の改革を行おうとした時代、
金次郎に対して、「幕臣(将軍直属の家臣)として働いてくれないか?」と打診されたのです。その後、金次郎は幕臣として農政に携わり、600を超える村々の貧困を救ったと伝えられています。
地域に住んでいる人たち!
「困っている人に対して、みんなで協力して生きていく事が大切なんだよ。」 このようなメッセージを伝えたかったように思えます。
「人間とは本来どうあるべきなのか?」 金次郎が語り継がれている理由がここにあるのではないでしょうか?
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