雑学

静岡!お茶の産地にしたのは勝海舟だった

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全国のお茶の生産量。このうち約4割を占めるのが静岡県でございます。もともと、円爾(えんに)という人物が、1244年に宋からお茶の種子を持ち帰り、駿河(静岡県)に植えたのが始まりだとされています。

明治以降、このお茶の需要を見込んだのが勝海舟でした。欧米でのお茶の需要が急速に高まる中、日本政府はお茶や生糸などを輸出して、外貨を稼ごうと考えたのです。

その流れを察知したのが勝海舟でした。
牧之原台地の気候・土質にお茶が適していると判断し、積極的に開拓させ、時には莫大な資金援助などを行って、現在の静岡の礎を築いていったのです。

勝海舟といえば、徳川慶喜や西郷隆盛を説得し、徳川側の人間として江戸無血開城を実現させた人物です。果たして明治時代以降、勝海舟という人物は何を行っていたのでしょうか?

無血開城後、明治政府は徳川方の人間に対し静岡の移住を命じます。徳川家は700万石の収入で3万人の家臣を雇ってきましたが、静岡の収入はたったの70万石です。3万人の家臣を雇う事ができません。

実際、静岡に移住したのは1万3千人でしたが、徳川方が雇い入れる事ができるのは五千人が限界でした。勝海舟は雇われなかった人たちに対し、再就職先の斡旋に全力を注いでいくのです。

これと並行し、家臣のお仕事を作るためにお茶の生産を行ったのです。

江戸無血開城をしたのち、徳川慶喜を護衛していた武士たちは職を失ってしまいます。やがて、武士たちは勝海舟の元へ集まり、自分たちの考えを訴えるのです。

「どうかお願いです。今から江戸城に行って切腹をしたいのです。」




勝海舟は考えます。
武士たちは無職になってしまい自暴自棄になっている。一方、俺は無血開城を行い武士の職業を奪ってしまった。そんな俺の意見など聞くはずがない。ならば、徳川に忠誠心のある武士の気持ちを利用しようではないか。

そこで、徳川家康公を祀る神社、久能山東照宮(静岡)の警護にあたらせ、新政府軍が攻めてきた時の為に守るよう訴えるのです。

しかし・・・ いっこうに新政府軍は攻めてきませんでした。



護衛たちは申し訳なさそうに勝海舟に訴えます。
「徳川家は苦しい財政の中、自分たちはただ働き同然でお給料を頂いている。申し訳ないので、私たちも開拓をさせてほしい」

勝海舟の思惑がぴたりと当たった瞬間です。
こうして、静岡県の牧の原台地がお茶の生産地として開拓され、現在に至っているのです。

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著者 出川 雄一(ツイッター)   障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。

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