雑学

6000人もの命を救った外交官!杉原千畝とはどんな人?

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杉原さん

杉原千畝(ちうね)さん(1900 – 1986) は日本の外交官だった人物です。

杉原さんはおとなしくて優しい性格の子供でした。
頭がよかったので、お医者さんになるよう父親から勧められますが、語学の道に進みたいと思い、大学に進学いたします。 やがて、官費で語学が受けられる制度を知り、ロシア語を学ぶ事になりました。

外交官になった杉原さんは中国へと派遣されます。



その後、ソ連との北満州鉄道の交渉などを担当し、国益に繋がる外交交渉を展開いたしました。(1933年) しかし、日本軍の中国人に対する行いに憤りを感じ、外交部を退官してしまうのです。

「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思ってない」 ← 杉原さんの日記から

やがて復職すると、
1939年にはリトアニアの日本領事館に就任する事になりました。

折りしも、ドイツがポーランドに侵攻した時と重なり、身の危険を感じたユダヤ人は日本領事館に出向き、日本を通過できるビザの発給を要求するのです。脱出は、シベリア鉄道で日本に向かうルートしかありません。

ドイツは、ユダヤ人であるというだけで殺害しようとしていたのです。領事館を取り囲むユダヤ人が日増しに増えていきます。そこで、杉原さんは外務省に電報を打つと・・・・・

「必要な書類がない人間にビザを発給してはいけませんよ」と告げられてしまいます。



杉原さんも諦めずに外務省に要求を伝えます。
「人道的な観点から、ビザの発給を拒否する事はできない。領事(自分)の判断で発行してもいいだろうか?」 当時、日本は国際連盟で人権の大切さを主張しており、この人権を引き合いに出して、外務大臣と交渉するのです。

しかし、外務省は、
「公安上の問題からビザを発行してはいけません!」
と言われてしまうのです。この時期、日本はドイツとの同盟を考えていた時期だったので、支障をきたすと考えていたようです。

杉原さんは悩んでしまい、眠れない状態が続いてしまいました。

ある時、5歳になる杉原さんの子供が母親に尋ねました。
「(必死に訴えているユダヤ人たちは)パパが助けてあげるの?」

すると、奥さんは
「そうですよ」 と答えたそうです。

ある時、杉原さんは奥さんに言いました。
「ビザを発行しようと思うんだけど、どう考える?ビザを発行すると、我々もドイツに捕まってしまうかもしれない。ユダヤ人を逃がそうとしてるんだから、私達もただではすまない。どう思う?」

奥さん
「私達はどうなるかわかりませんけれど、そうしてあげてください」

杉原さんの手記です。
ユダヤ民族から永遠に恨みを買ってまで、旅行書類の不備だとか、公安上の支障云々を口実にビザを拒否しても構わないというのか?それが果たして国益に叶うことだというのか?苦慮の挙句、私はついに人道主義、博愛主義第一という結論を得ました。

迷いから解放された杉原さんは食事も取らず、ビザの書類を書き続けます。そして、出国の際、汽車の中でもビザを書き続けるのです。

「ゆるしてください。わたしにはもうかけない」

この言葉を残し、リトアニアを出国しました。
日本に戻ると、外務省から退職通告書が送付され、依願退職しました。

民間で働く事になった杉原さん。
外交官としてユダヤ人を救った事は言おうとしなかったそうです。

1968年、1人のユダヤ人が杉原さんのもとへ訪れます。
ボロボロになった当時のビザを握りしめ、涙をこぼしながらいうのです。

「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」

なんと、助けられたユダヤの人たちは、身元がわからなかった杉原さんを探し続けていたのです。(28年ぶりの再会となりました)

その後、1994年に公開されたシンドラーのリストで、1100人ものユダヤ人を救ったオスカー・シンドラーが話題になると、日本のシンドラーとして、杉原さんに注目が集まるようになりました。

著者 出川 雄一(ツイッター)   障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。

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