視覚障がい者の方が自分らしく働ける!そんな環境を作りたい(ノ^-^)ノ
ところで、昔の視覚障がい者の方はどんなお仕事をしていたのだろうか(´^`;) 過去の状況を調べる事で、ヒントが得られるかもしれないぞ。
という事で、今回は宇多田ヒカルさんのおばあちゃんのお仕事について調べてみました。宇多田さんのお母さんは、演歌歌手の藤圭子さんです。そして、藤圭子さんのお母さんにあたるのが、盲人芸能の世界で活動されていた竹山澄子さん(1930 - 2010)という方です。
そうなんです。この竹山さんは視覚に障がい者がある方で、瞽女(ごぜ)というお仕事で生計を立てていたそうです。
瞽女? それってどんなお仕事ですか?
三味線などを弾いたりする盲目の女性芸人を瞽女といいます。特徴は、門付(かどつけ)といって、家の門の前で芸を行い、その対価としてお金やお米・果物などを頂いて生活をしていた点です。
このような生活をしていたので、竹山さんは極貧状態の中で旅をしながら生計を立てていたそうです。ちなみに藤圭子さんは、親のお手伝いをするために高校に進学できませんでしたが、一緒に唄う事により歌唱力がUP。後にスカウトされる事となりました。
Q、瞽女に需要はあったのですか?
瞽女の歴史は定かではありませんが、少なくとも室町時代の文献に瞽女について記載されている文章が確認されています。また、江戸時代から昭和の初期に渡り、至る所に瞽女の姿を見る事ができたそうです。
娯楽がないこの時代。
毎年、巡業で訪れる瞽女の姿を待ちわびる方も多く、経済苦であるにもかかわらず、それを見せずに明るくふるまう彼女たちに対し、庶民たちも大切に受け入れていたようです。
この時代、お互い様の精神がありましたので、その土地の有力者(地主)などが無料で宿を提供していた背景もあり、社会保障が確立されていない時代の中、みんなで支えあって生きていたのですね。 (*∩_∩*)ヾ(∇⌒*)ナデナデ
しかし・・・
大正時代からある画期的なアイテムが普及してしまい、瞽女たちの生活を脅かしてしまう事態に発展してしまうのです。
それはラジオです。(新しい娯楽の誕生です)
ラジオから流れてくるメロディーに、庶民のココロは次第にそちらに傾くようになってしまいます。瞽女たちの存在意義が低下していくことになるのです。
とどめを刺したのは戦争です。
日本が負けてしまうと、GHQの命令により農地改革を迫られました。つまり、地主制度を解体したために、支えてくれていた権力者が遠のいてしまったのです。
よって、生活の糧を得るために、「鍼」・「灸」・「按摩」の世界に身をささげる女性が増えていく事になるのです。
庶民の生活が貧しかった時代。
それでも、できる範囲で瞽女たちと一緒に支えあっていこうではないかo(〃’▽’〃)o 生活に苦しみながらも、飛び切りの明るさでお仕事をされていた瞽女たちのお気持ちを、庶民たちはちゃんとわかっていたのかも知れません。
お互い様の精神って美しいですね(*^-^)人(^-^*) そんな社会を作っていくぞo(・Θ・)○
著者 出川 雄一(ツイッター) 障がい者の工賃を高める仕組み(福祉資本主義)を考え、実践しております。主に点字名刺・点字印刷・ハンドメイドなど。障がい者ブランド(ココリティ)の活動も行っています。
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